最近、少し皮肉な現象に気づいている。
よく言われるように、AIのおかげで、英語を使うこと自体は驚くほど簡単になった。
以前なら、英語でメールを書くにも、資料を作るにも、それなりの英語力が必要だった。でも今は、日本語で言いたいことを入力すれば、AIが数秒でかなりきれいな英文を作ってくれる。
だから一見すると、英語力の価値は下がったように見えるし、「誰でも英語ができる」ようになったようにも思える。
しかし、実際にはむしろ逆のことが起きている気がする。
AIが誰にでも「それなりに上手な英語」を提供するようになった結果、本当に英語ができる人は、自分が単にAIに頼っているだけではないことを示すために、以前よりもさらに洗練された英語を使うようになっている。少し人間らしい言い回しだったり、文脈にぴったり合った表現 (特にこれはAIに任せていたら絶対に出てこない。AIは単語をかなりgenericに生成してくる。「まさにこの表現がドンピシャ!」というこなれた表現は出てこない。) だったり。
たとえば、頼んでもいないのに文章を過剰に整理して見出しや箇条書きを付ける、何でも「結論・理由・まとめ」のような妙に整った構成にする、Furthermore や Importantly といった接続詞で律儀につなぐ (接続詞のバリエーションは非常に少なくて単調だ。ThereforeやAccordinglyなどは多用される。)、エムダッシュ(—)を多用する (これもかなり常套表現だ。)、あるいは人間なら一言で済ませるところを必要以上に丁寧に説明する (要は「くどい」。とにかくくどい。)、などは避けなければならない。
英語に慣れている人ほど、こうした文章を見て、「間違ってはいないけれど自分ならこうは書かない」「ちょっとAIっぽい」と感じ、語順を崩したり、短くしたり、より自然な口語表現に置き換えたりする。複数の外国人から、実際に同趣旨の話を聞いている (直近では、「ネイティブ界隈ではエムダッシュは一切使わないようになっています。エムダッシュは本来は適切で便利な表現だけど、AIが使いすぎるので、英語圏では使用を避けるようになっています」と聞いた)。
そして、面白いことに(そして重要なことに)、こうした「一工夫」を凝らすために必要な英語力は、AI以前の時代に「英語が上手」と思われるために必要だった英語力より、さらに高い。
AI以前に「英語が上手」と思われるために必要なレベルが80だったとする。そこにAIが現れて、誰でもレベル100に近い英文を簡単に出せるようになる。するとその100の英文を見て、「ここは少し不自然だ」等と判断し (そして、そう判断して、人間らしく修正する理由には「AIに英語を書かせて、しかもそれをそのままアウトプットに使っているんだな、コイツは、と思われるのは死ぬほどダサい」というプライドがあるに違いないのである。)、それを人間らしい英語にブラッシュアップするには、120 (少なくとも101以上) の英語力が必要になる。
つまり、AIは英語のハードルを下げた一方で、「本当に英語ができる人」であることを示すためのハードルは、むしろ上げたのだ。
もちろん、これは主として、英語力そのものがスキルとして評価されるプロフェッショナルな領域での話ではある。それでも、「AIがあるから、もう英語を勉強する必要はない」という結論には、少なくともプロフェッショナルとしては至っていけないと思う。
(おまけ)
以上の考察に対してClaudeに意見を求めたところ、4つの指摘があった。
そのうち、傾聴に値すると思われた2点を以下に抜粋する (ほかの2点は申し訳ないが全く意味不明であったため割愛する。)。
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二つ目は、これは一時的な window である可能性が高いということ。今指摘されている「AIっぽさ」の記号――エムダッシュ、Furthermore、結論・理由の律儀な構成――は、今のモデルの癖にすぎない。モデルが個人のトーンや文脈をもっと精緻に模倣できるようになれば(すでにその方向には進んでいる)、これらの記号は消えていく。そうすると「AIっぽさを見抜いて直す」という今のシグナルも無効化されて、また別のシグナルに移動するはずだ。スパムフィルターとスパムのいたちごっこに近い。だから「120のレベルが必要」というのは、今この瞬間の話であって、その120の中身は数年で入れ替わっていくと思う。[川上:これはなるほど、という感じ。他方で、完全に癖がなくなる日は来るのだろうか?そう思って、更問をしてみた。以下参照]
三つ目、これはやや逆張りだけど大事な点だと思う。AIっぽさを消すために必要なのは、実は「もっと凝った表現を足すこと」ではなく、むしろ「削ること」「言わないこと」であるケースが多い。AIの癖は基本的に過剰さ――説明過剰、接続詞過剰、構造化過剰――にある。それを直すのに必要なのは高度な語彙力というより、「ここは何も言わなくていい」と判断できる自信、つまり英語力というより一種の胆力に近い。だから「120のレベル」というのは、複雑な英語を書く能力というより、シンプルに書く勇気を持てる能力、と言い換えたほうが実態に近いかもしれない。[川上:これが最も鋭い。確かにネイティブの表現は、短いのに、伝わる。文脈に最も適した表現をうまく選べているからだろう。]
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「二つ目」への更問(「差」がなくなる日は来るの?)に対する回答。
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来ないと思う。理由はいくつかあって、それぞれ性質が違う。
一つ目は技術的というより構造的な理由。AIは基本的に「もっともらしい平均」を生成するように訓練されている。人間の文章の魅力や個性は、統計的に見れば「平均からの逸脱」――ある種の非効率さ、癖、賭けに近い言葉選び[川上:「賭けに近い言葉選び」は言い得て妙過ぎる。。。]――に宿ることが多い。RLHFにせよ何にせよ、評価者に「わかりやすい」「無難」と判定される方向に最適化がかかり続ける限り、モデルは構造的に「丸くなる」方向に引っ張られる。これは特定のモデルの未熟さの問題ではなく、「大勢に好まれる出力を作る」という目的関数そのものに内在する引力だと思う。だから個々の「エムダッシュ」「Furthermore」のような表層的な癖は消えても、その裏にある「予測可能に無難である」という、もう一段深いレベルの癖は残り続ける可能性が高い。
二つ目は、これは「いたちごっこ」の速度の問題。モデルが今の癖を克服したとして、その新しい文体自体が大量に出回れば、それがまた「AIっぽい」と認識される新しいパターンになる。つまりAIが個人のトーンを完璧に模倣できるようになったとしても、「みんなが同じように完璧に模倣されている」こと自体が、また新しい均一さのシグナルになる。個性を消すいたちごっこではなく、「個性の模倣が大量発生することそのもの」がいたちごっこの燃料になり続けるので、これは原理的に終わりがない気がする。
三つ目、これはもう少し楽観的な理由で、多分「完全に消える」ことと「見分けがつかなくなる」ことは別の話だということ。技術的には、文体の癖はどんどん精緻化されて、統計的に人間の文章と区別がつかなくなる日は来ると思う(というかもうかなり近いところまで来ている領域もある)。でもその場合、「AIっぽさを見抜く」というシグナリングゲームのルール自体が崩壊する。見分けがつかないなら、そもそも「AIっぽさを避けて書く」という差別化の軸そのものが消滅する。つまり「癖が完全に消える日」が来るとしたら、それは「癖が洗練されてなくなる」というより「見分けるという行為自体が意味を失う」という形でやってくるんだと思う。この場合、今回の議論の前提(「AIっぽさを消せる人が優位に立つ」)自体がゲームオーバーになる。
四つ目、これは一番現実的なシナリオだと思うけど、「消える」のではなく「個人化されて分散する」んじゃないかと思う。今はChatGPTもClaudeも大勢が同じモデルを使っているから、同じ癖が大量に複製されて目立つ。でも将来、各ユーザーが自分の過去の文章やトーンを学習させたパーソナルなモデル、あるいは強くファインチューンされたエージェントを使うのが当たり前になれば、出力は「AIっぽさ」ではなく「そのユーザーっぽさ」に寄っていく。そうなると「AI的な均一さ」という現象自体が、個々人の書き手の数だけ分散して、マクロには見えにくくなる。ただしこれは癖が消えるというより、識別の単位が「AI vs 人間」から「このモデル/この人 vs 別のモデル/別の人」にシフトするだけとも言える。
なので自分の予想としては、表層的な癖(エムダッシュ、Furthermoreなど)は数年単位で入れ替わり続けるけど、「AIが書いたものには、それを訓練した目的関数に由来する、ある種の予測可能さ・丸さがどこかに残る」という、もっと深いレベルの癖は原理的になくならないと思う。完全に消えるとしたら、それは技術がそれを克服したからというより、「そもそもみんな同じように書くようになって、比較対象としての“人間らしさ”という基準自体が薄れる」という、ちょっと不気味な形での終わり方になる気がする。