もし「幸せの定義とはなにか」と訊かれたら(自分がそう訊かれることはそもそも想定されないが)、「幸せとは、可能性が拓かれていること」と答える。
これまでの人生で成し遂げてきた何かや、築き上げてきた何か(あるいは、特別に何かを成し遂げたり築き上げていなくても、今手元にあるもの)をコレクションのように眺めながらうっとりした気持ちを感じることもあるのかもしれないが、それは「幸せ」というよりは自画自賛に似たもので、いわゆる「足るを知る」的な価値観には同意ができない。
人生の豊かさや幸福は、自分自身が将来に向けた目標や夢を持ち、その実現のために自分なりに一生懸命に努力をして、成功して喜んだり、あるいは失敗や挫折をして涙に暮れたりするという機会がある、つまり「可能性が拓かれていること」ことにこそ在るのだと思う(もちろん異なった意見の人もいると思う)。
だから、たとえ不運な事故や病気などによって、今までに自分が得たものやもとから持っていたもの(財や健康など)が奪われたとしても、そこから将来にわたってまた新しい夢とか目標を立てて生きていく機会が残されてさえいれば、決して「(たしかに何かは失ったが)幸せまでは奪われていない」ということになるはずである。