最初の記事でも書いたが、大学生の頃からずっと小説家になりたかった。
小説が好きだったし、物語に限らず、いわゆる高校生の「現代文」の授業で読むような学者の論文も好きだった。予備校の模試やセンター試験の過去問の現代文で、気に入った文章が出ていると、わざわざ出典から探して、買って、読んでいたりした。
文章というのは良い。
残念ながら、絵や音楽といったいかにもな「芸術」は解せないが、文章は善し悪しがわかりやすいのである。
三谷幸喜作の演劇作品に『コンフィダント・絆』というものがある。
ゴッホ、ジョルジュ・スーラを含む4人の芸術家(ちなみに全員、売れる前で貧乏だ。ただし、スーラだけは『点描画』の大家としてそこそこ売れている)が送る共同生活がメインテーマだが、他の3人から見ても、ゴッホの才能は圧倒的だった。世間的には売れていないが、「いつか必ず売れる。時間の問題」というのが彼ら3人の見解である。
ある日、ゴッホが何の気なしに描いた作品を見て、スーラが「そうだ。この背景は青じゃなくちゃいけない。青なんだ。でも、どうしてアイツは青が正しい色だってわかるんだ……」(セリフの引用は正確ではない)と、ゴッホの絵を胸に抱きしめ、自分との才能の違いと、ゴッホの絵のすばらしさの両方に涙するシーンがある(ちなみに、ゴッホは印象派の画家なので、ゴッホが『青』と見たその『背景』は全く青くない)。
自分も読むとき、「どうしてこんなに美しい文章が書けるんだろう……」と、(どの立場からものを言ってるんだ、という感じではあるが)勝手に(スーラのように)感心することが多々ある。嫉妬と感動が一緒にこみあげる。
「小説家になりたい!」と思いつつ、何もしていなかったわけではない。
大学生の頃には文学賞に応募したりしていたし(ただし箸にも棒にも掛からず)、プロの小説家(小説が映画化されたりしていてまあまあすごい先生だった)に弟子入りしたり(ただし見捨てられる)、弁護士になるまで、いわゆるフリーランスのライター(媒体はコラムサイト、スポーツ新聞等)として活動したりしていた。
フリーランスライターの職にありつけたおかげで、22歳の頃には、一応「文章で食う」ということができていた。
その後、ある出来事がきっかけで小説家になる夢は当面ペンディングにせざるを得なくなったが(とてもつらい経験だった。またの機会に書いてみたい)、幸い、あるふとしたきっかけで、「弁護士」という新しい目標を見つけることができた。
そして今は、弁護士として「文章で食う」ことができている。(弁護士として働くことを「文章で食う」と捉えている人はあまり多くはないかもしれない。)
弁護士の仕事は、人のためになる(実益のある)文章を書いてお金をいただくことだ。それには、当然社会的意義があり、ときに依頼者からの感謝もある。そしてひょっとすれば時折、誰かを救うことができているかもしれない。もちろん、やりがいがある。
だけどいつか、人のためにならない、実益のない文章を書いて、誰かを救えたらいいな、という夢は相変わらず持ち続けている。